「…っ! おい、翔! その話……本当なのか?」「ああ……」「お前なあ……。確か子供だって生まれたら朱莉さん一人に育てさせるつもりでいたよな? しかも、朱莉さん本人が生んだようにして……。一体明日香ちゃんは何を考えているんだよ!」とうとう我慢できず、琢磨は机を叩いた。「不安なんだって……言ってた……」「え? 不安……?」「自分は本来なら鳴海家にいていいはずの人間じゃないって……。鳴海家には血のつながってる家族がいないから……本当の家族が欲しいって言ってるんだ。だから子供が欲しいって……」琢磨は下唇を噛んだ。(そうか……自覚があったのか……。まずいことを言ってしまったな)その様子に気が付いた翔が声をかけてきた。「どうした? 琢磨。何かあったのか?」「実は……本来、明日香ちゃんは海家において貰っている立場だってことを忘れるんじゃないと、つい口が滑って言ってしまったんだ……」「そうか……まあいい、気にするな。これは俺と明日香の問題だから」「確かにお前と明日香ちゃんの問題ではあるが……子供を産みたいとなるとそれはまた別問題だからな?明日香ちゃんが薬をやめたのは子供が欲しいからなんだな?」「そうだ」頷く翔。「俺は医者じゃないから良く分からないが、あんな精神状態で妊娠生活を送れるのか? とても無理だとは思わないか? 悪いことは言わない。今はまだ考え直してくれ。お前たちの為だけじゃない、俺は朱莉さんのことも考えて言ってるんだ」「朱莉さんの為か……。そうだな、それは当然だな」「いいか。朱莉さんは今高校卒業の資格を取る為に通信教育を受けているんだろう? 少なくとも3年間は勉強を続けないといけない。それなのに、明日香ちゃんの子供が生まれたらどうするんだ? お前たちは朱莉さんに育てさせるつもりなんだろう? それとも朱莉さんを巻き込まずに、明日香ちゃんとお前の2人で生まれてきた子供の子育てをすると言うなら……もう勝手にするがいいさ」「明日香に子供を育てるのは無理だ」「だったら、最初から子供のことは諦めろよ!」再び琢磨は声を荒げたが……ため息をついた。「すまなかった翔。後2時間もすれば大事な商談が始まるって言う時に……。出来るだけ俺も協力するから、今は目先の仕事のことを考えよう」「ああ……そうだな」翔は顔を上げて無理に笑みを作ると書類に目を通し
ここは港区にある六本木の総合病院――朱莉は入院病棟の待合室の長椅子に1人座っていた。――カチャリ病室のドアが開き、初老の男性医師が看護師を伴って病室から出てきた。「あ、あの……彼女は……明日香さんはどうなったのでしょうか?」朱莉は立ち上がると男性医師の側へ足早に近付き、声をかけた。「ええ、今は安定剤で落ち着いたのか眠っております。患者さんは過換気症候群になっておりました」「過換気症候群……? あの、それはもしかして過呼吸というものでしょうか?」朱莉は首を傾げながら質問した。「はい、そうですね。精神的な不安や緊張感といった強いストレスから過度に呼吸をし過ぎて発症してしまい、呼吸困難や息苦しさといった症状を引き起こします。これが悪化すると痙攣や麻痺が身体に現れてくる場合もあります。今回の患者さんは過呼吸の症状が強く出てしまったようですね。でももう大丈夫です。こちらで適切な処置を施して精神安定剤も投与したところ、落ち着きを取り戻されて今はお休みになっています。あの……失礼ですが、貴女は患者さんとどのようなご関係でしょうか?」医師に聞かれた時、朱莉は一瞬ドキリとした。(関係……? 私と明日香さんの関係……明日香さんには嫌がられるかもしれないけれど……)「私は彼女の親戚です…」医師の目を見ると朱莉は答えた。(大丈夫、嘘は言っていない。だって今私は明日香さんと同じ『鳴海』の姓を名乗っているのだから)「ああ。ご親戚の方でしたか。でも患者さんの側にいられて本当に良かったです。1人ですと余計患者さん御自身が不安な気持ちになり、症状が悪化してしまう事もありますので。取りあえず様子を診る為に1日だけこちらで入院して下さい。では、後の話は看護師から話を聞いて下さい」医師はそれだけ告げると去って行った。 代わりに今度は看護師が朱莉に声をかけてきた。「まずは入院手続きを取らなければなりませんので、こちらの書類に必要事項の記入をお願いします」バインダーに挟まれた書類を朱莉に手渡した。「はい」朱莉は書類を受け取ったが、正直に言うと困っていた。書類には生年月日やら血液型、既往歴、現在服用している薬……等々様々な項目を記載しなければならなかったが、朱莉には住所と電話番号以外は何1つ記入する事が出来なかったからである。「あ、あの」書類に目を落していた朱莉
17時――無事に商談を終えた琢磨と翔はオフィスで珈琲を飲んでいた。すると、突然琢磨のスマホに着信が入った。琢磨はその着信相手を見て怪訝そうに首をひねる。「え……? 朱莉さんからだ……?」「朱莉さんからメッセージが入ったのか?」翔は珈琲をデスクに置いた。「あ、ああ。なんだろう? まさか明日香ちゃんが朱莉さんの部屋へ行ったのか?」「琢磨、早くメッセージの内容を教えてくれ!」翔がせっつく。「分かった」琢磨はスマホをタップしてメッセージを開いた。『お忙しいところ、申し訳ございません。実は明日香さんから突然<たすけて>とメッセージが入って来たので、お部屋に伺った所、倒れている姿を発見いたしました。呼びかけても反応が無く、すぐに救急車を呼びました。今は六本木の総合病院に運ばれて眠っております。病名は、<過換気症候群>でしたが命に別状はありませでした。ただ、念の為に本日は入院をするように先生から言われております。申し訳ございませんが、お手すきの時にお電話いただけないでしょうか?』琢磨と翔は2人でメッセージを読み、息を飲んだ。「明日香……!」翔の顔色が変わる。「おい、翔。過換気症候群て、いわゆる過呼吸っていうやつだろう? 今までにも同じ症状を起こした事はあるのか?」「分からない……。少なくとも、俺と2人きりの時はそんな症状を起こしたことは無かった」「すまない翔。多分、明日香ちゃんが過呼吸を起こしたのは俺のせいだ。お前朱莉さんに直接連絡入れろ。そしてすぐに病院へ行けよ。何、もう今日の重要な仕事は終わったんだ。早く明日香ちゃんの所へ行ってやれ。あまり朱莉さんに負担をかける訳にはいかないからな」「ああ、分かったよ」翔はその後、すぐに朱莉のスマホに直接電話をかけた。2人は暫く電話で会話のやり取りをしているのを琢磨は自分のデスクで仕事をしながら、時々様子を伺っていた。(それにしてもあのプライドの高い明日香ちゃんが朱莉さんに助けを求めるなんて……余程苦しかったのだろうな。だけど、これをきっかけに少しでも明日香ちゃんの朱莉さんに対する心情が変化して、歩み寄ってくれれば……)しかし、そこまで考えて琢磨は首を振った。一瞬でも馬鹿な考えを持ってしまったと思った。例え、明日香の心情に少し変化が現れたとしても今まで明日香に散々嫌な目に遭わされてきた朱莉に取っ
翔は自宅から入院に必要な荷物や保険証を用意すると、すぐに朱莉から教えて貰った明日香の入院先の病院へと向かった。病院に到着したのは午後6時過ぎ。翔は急いで明日香が入院しているナースステーションへ向かうと面会手続きを済ませ、明日香が入院している701号室へと向かった。701号室はこの病院の特別室となっていた。「朱莉さん!」701号室の廊下に置かれたパイプ椅子に朱莉が座って通信教育の勉強をしている姿が目に飛び込んできた。「あ、翔さん。お待ちしておりました」朱莉は立ち上がると会釈する。「朱莉さん。今日は本当にありがとう。貴女のお陰で明日香が大ごとにならずに済んだよ。本当に感謝している」「いえ、私は明日香さんからメッセージを貰って、それで倒れている明日香さんを発見して救急車を呼んだだけですから」「それで、何故廊下にいるんだい? 中へは……」そこまで言いかけて翔は言葉を飲み込んだ。ひょっとすると朱莉自身が病室に入るのを拒んでいるのか、それとも明日香に拒絶されたか……。どちらかなのだろう。「それでは、翔さんもいらしたことですし、私は失礼しますね」朱莉は立ち上がるとテキストをカバンにしまって立ち上がった。「ま、待ってくれ。朱莉さん! 明日香はもう目が覚めてるのか?」「はい。看護師さんの話では1時間ほど前に意識を取り戻したそうですよ?」「なら一緒に中へ入ろう! 明日香に礼を言わせるから!」「え? で、でもあの……」朱莉は動揺しているが、翔は思った。(何。明日香は朱莉さんに自ら助けを求めたんだ。今なら2人は少し歩み寄れるチャンスかもしれない)「さあ、一緒に病室へ入ろう」翔は朱莉の右手首を掴むと明日香の病室のドアを開けた。「明日香! もう具合が良くなったんだってな?」翔は笑顔で明日香の病室へと入って行く。「翔! 遅かったじゃない! って朱莉さん! 貴女……翔と何やってるのよ!」明日香の鋭い声が朱莉に向かって飛んでくる。「す、すみません」朱莉がビクリとなって翔に掴まれ散る右手を引こうとした。その時になって翔は自分が朱莉の手首を握りしめていたことに気が付いた。(まずい!)翔は慌てて朱莉の手首を離した。「違う!明日香、今のは誤解だ。俺が勝手に朱莉さんの手首を掴んでいたんだ」そして慌てて明日香に近付く。「明日香。朱莉さんに礼は伝えた
「いえ、私は別にお金の為では無く……」口にしかけたが、明日香にぴしゃりと言われた。「貴女ねえ……こういう場合はしのごの言わずに黙って受け取るのよ。何? それともお金以外に何か下心でもあったのかしら?」「おい、明日香!」翔は咎めようとしたが、明日香が憎悪の込めた目で朱莉を見つめていたので、何も言うことが出来なかった。(駄目だ。俺が朱莉さんを庇い建てするとますます彼女の立場が不利になってしまう)「あ、明日香さん……。謝礼金……ありがたく受け取らせていただきます」朱莉は消え入りそうな声で明日香に礼を述べた。「そうそう、最初から素直にお金を受けとると言ってれば良かったのよ」「はい、それでは私は今夜はここで失礼します」朱莉は頭を下げて部屋を出て行こうとした。「俺が車で送るよ」翔がそう言った時、突如として明日香がジロリと翔を睨み付けた。「何ですって? 朱莉さんを送るって言ったのかしら?」「あ、ああ……。車で病院迄来ているから。彼女を自宅まで送れば、俺も着替えを持って来れるだろう?」すると明日香が目に涙を浮かべる。「酷い……翔……」「え? どうしたんだ? 明日香」「こっちは自宅で意識を無くして病院に運ばれて入院したって言うのに……翔はそんな私を放って朱莉さんを自宅まで送るって言うの!?」「い、いや……。でも、ほら……大分外も薄暗くなってきているし……」「薄暗いって言ったってまだ7時にもならないでしょう!? 子供じゃないんだから朱莉さんは1人で帰れるわよっ! ねえ……心細いのよ、翔。何処にも行かないでよ!」明日香は翔に縋りついてきた。「明日香……」明日香の髪を撫でながら朱莉を見た。「あの、私の事なら大丈夫です。1人で帰れますので、どうか気になさらないで下さい。それでは明日香さん、どうぞお大事にして下さい」朱莉は頭を下げると、翔の返事も聞かずに足早に部屋を立ち去って行った。(朱莉さん……)翔の脳裏には先程朱莉が見せた悲し気な顔がいつまでも残っていた――****朱莉は美しい光に照らし出されたビル群の間を口を結んで黙って歩いていた。電車に乗っている時も下唇を噛み締めていた。億ションに向かって歩いている時は数学の公式を頭の中で唱えていた。そして、エレベーターに乗り込み、自宅の部屋の鍵を開けて室内へ入ってから、初めて朱莉はきつく
翌朝――オフィスで琢磨は翔からの電話を受けていた。「ああ、大丈夫だ。こっちのことは心配するな。……何言ってるんだ。そんな事は今更だろう? ……うん。急ぎの案件はこちらで処理して、後でメールするから安心しろ。なあ、翔……。これは俺からの提案なんだが……。え? ああ……そうか。悪かったな。それじゃ電話切るぞ。じゃあな」ピッ琢磨は翔からの電話を切ると溜息をついた。「翔……。俺は明日香ちゃんよりも……お前の身体の方が心配になってくるよ……」(何とか翔の負担を少しでも減らしてやらないと……)琢磨はPCのメールを立ちあげると、メッセージを打ち始めた――****「ああ~。やっぱり家はいいわねえ……」明日香は伸びをしながらリビングのソファに座った。「明日香。今日は家でおとなしくしているんだぞ?」荷物を持って後から部屋へ入って来た翔は明日香に声をかけた。「はいはい、分かってるわよ」明日香は背もたれによりかかりながら返事をした。その時翔が着替えを持ってバスルームへ行こうとしているのに気が付き、声をかけた。「あら? 翔。シャワー浴びるの?」「あ、ああ……。結局昨夜はそのまま着替えもせずに寝てしまったからな」「あら? 私のせいだと言いたいのかしら?」明日香はジロリと翔を睨む。「何故そう思うんだ?」「だって今貴方がシャワーを浴びるってことは、私がこの部屋に昨夜帰らせずに着替えを取りに戻れなかったからと言いたいんでしょう?」「別に俺は何も言っていないぞ?」翔は明日香の隣に座るった。「だいたいねえ……。私が入院になったって聞いた段階で、一緒に病院に泊ろうって考えるのが筋じゃないの? 最初からそう考えていれば、自分の着替えを持って来ようと言う考えに至ると思わない?」「あ……」翔は唖然としてしまった。まさか明日香がそこまで考えていた等想像もつかなかった。「そうだよな……言われてみればそのとおりだった。お前が入院したなら、付き添い位考えれば良かったな。明日香。俺の考えが至らなくてすまなかった」明日香の頭を自分の肩に抱き寄せる翔。「いいのよ……。分かってくれれば。だから、翔。お願い……絶対に私を1人にさせないでよ?」明日香は翔の胸に顔を埋めると懇願する。「ああ、分かってるよ。明日香……お前を決して1人にはしない……」(今の明日香はあの時と
「ふう……。今回は父のお陰で助かったな……。いや、そんな言い方をしては駄目か」翔は口元に笑みを浮かべると考えた。(それにしてもおかしい。妙にタイミングが良すぎだ。偶然だろうか……?)「まさか……な。だが……何かおかしい」翔は念のために琢磨に電話を入れた。何回かの呼び出し音の後、琢磨が電話に出た。『もしもし。どうした翔?』「こんな時間に悪い。実は先程会長から電話が入ったんだ。マレーシア支社でトラブルがあったとかで、そっちに向かわなくてはならなくなったと。だから今回の会長の帰国は取りやめになった」『ああ、そうか』「そうかって……やけにお前、あっさりしてるな? もっと驚くかと思ったが」『そうか? でも予定が変わるのは別におかしな話じゃない。いつものことだろう?』「いや、いつもと違って妙な感じがある。……琢磨、正直に答えてくれ。お前……何かしただろう?」『何かって……何をだ?』「おい、とぼけるな。お前……父に何か話をしたんじゃないのか?」しかし、中々返事が無い。「琢磨、黙っていないで答えろ』『分かったよ……。そこまで気付いているなら話すよ。実は社長に明日香ちゃんのこと……伝えたんだよ』「! おまえなあ……! 何か余計なこと話したりしていないよな?」『ああ、安心しろ。明日香ちゃんがお前と一緒に暮らしてるなんてこと、口が裂けても話していない』「それじゃ……何て言ったんだ?」『最近、明日香ちゃんが精神面で弱っている。この状況で会長と会った時、明日香ちゃんがどうなるか心配だって相談したんだ。言っておくが俺がこの話をしたのは明日香ちゃんの為じゃない。お前と朱莉さんを心配してのことだからな?』「俺と朱莉さんの為……?」『そうだ。朱莉さんの件からずっと明日香ちゃんの精神状態がおかしくなったのは確かだ。だが、それは朱莉さんには何の落ち度もない。むしろ彼女は俺達の計画に巻き込んでしまった哀れな被害者だ。それに翔、お前はある意味自業自得ではあるが……ここまで明日香ちゃんの精神状態がおかしくなるとは思わなかったんだろう?』「ああ……」偽装結婚の話は明日香と何度も話し合って、互いが納得して決めた事であったはず。なのに朱莉という書類上だけの仮の妻が現れた途端、明日香はおかしくなってしまった。いや、正確に言えば朱莉の美貌を目の当たりにした途端、明日香が
季節が移り変わり、いつの間にか12月になっていた。休憩時間、オフィスの窓から翔と琢磨は外の景色を眺めながらコーヒーを飲んでいた。「世間はもうクリスマス一色だな」琢磨は翔を見ながら話しかけた。「ああ…本当に早いものだな…」翔は窓の外をじっと見つめながら何か考えごとをしているように見える。「どうした? 翔。何考えているんだ?」琢磨は翔の様子に気付き、声をかけた。「あ、ああ……。実は明日香からクリスマスプレゼントは今年は俺が選んでくれって言ってきて困っているんだ。20代の女性が好むプレゼントって言うのが俺には良く分からなくてな……」「へえ~。いつもなら毎年明日香ちゃんが自分の方からリクエストしてくるのに随分変わったな? これもカウンセラーのお陰じゃないか?」「ああ……。そうかもな。琢磨、ありがとう。お前のアドバイスのお陰だよ。あのまま何もしないで放っておけば今頃明日香はどうなっていたか分からないよ。それにカウンセラーのお陰で、明日香は家政婦も受け入れてくれたしな」翔は笑顔で言った。今、明日香と翔の元には月曜~金曜日まで家政婦協会からベテラン家政婦が派遣されて来ている。その人物もカウンセラーからアドバイスを受けて、条件にかなった人物を探し出し、専属の家政婦をやって貰っているのだ。家政婦として雇った相手は60代の女性で、若い頃は秘書として働いていた。きめ細やかな所まで行き届くように世話をしてくれる素晴らしい家政婦であった。カウンセラーと家政婦のお陰で翔の負担はあの頃とは比べ物にならない位に楽になった。カウンセラーと家政婦には当然翔と明日香の関係を……そして朱莉と言う偽装妻の存在も打ち明けていた。その際、絶対に誰にも口外しないことを条件に告白していた。そのことをカウンセラーと家政婦に伝えた所、自分たちをあまり見くびらないでくれと叱責されたほどであったのだ。「琢磨。本当に感謝している。お前がいなければ、今頃どうなっていたか分からないよ」すると琢磨が肩をすくめる。「あのな、俺は別に明日香ちゃんの為だけを思ってアドバイスをしたわけじゃないぞ? お前のことや、それに朱莉さんのことを心配して言ったんだからな?」「ああ。勿論分かってるさ」苦笑する翔。「あ、そう言えばさっき明日香ちゃんへのプレゼント何がいいか考えていたよな?」「ああ。そうだ」
航と琢磨は互いにエントランスで睨み合っていた。朱莉の姿がいなくなると最初に口を開いたのは琢磨の方だった。「名前は聞かされていなかったけど君なんだろう? 興信所の調査員で、仕事の為に沖縄に来て朱莉さんと知り合って、同居していたって言うのは」「ああ、そうさ。朱莉、あんたに俺のこと話していたんだな?」航はニヤリと笑った。「どうやらお前は相当口が悪いみたいだな? だったらこちらも遠慮するのはもうやめるか」「へえ? あんたは京極とはタイプが違うんだな?」「何? 京極のことを知ってるのか?」「その反応からするとあんたも京極のことを良くは思っていないようだな?」琢磨は航の口ぶりから警戒心をあらわにした。「お前一体どこまで知ってるんだ? 興信所の調査員だって言ってたな? ひょっとして朱莉さんと知り合ったのも俺達絡みの件でか?」「へえ? その口ぶりだと心当たりがありそうだな? だが俺がそんなこと話すと思うのか? 仮にも俺は調査員だからな」航は挑発をやめない。そもそも朱莉と翔の偽装結婚のきっかけを作った琢磨が憎くて堪らなかった。(九条の奴が朱莉をあんな奴に紹介さえしなければ……)そう思うと琢磨に対する怒りがどうにも抑えられない。琢磨も初めの内は何故自分が航から敵意のこもった目で睨まれるのか見当がつかなかったが、調査員と言うことを考えれば、今迄の経緯を全て知ってるかもしれないと気付いた。(ここで話をするのはまずいな……)「おい、どうした? 急に黙って」航は怪訝そうな顔を見せた。「取りあえず……ここで話をするのは色々とまずい」「あ、ああ。言われてみればそうだな」航も辺りを見渡しながら、京極に言われた言葉を思い出した。「あまり遅くなると朱莉さんが心配する。取りあえず話は後にしよう。もし時間があるなら朱莉さんの手料理を食べた後場所を変えて話をしないか?」琢磨は航に提案した。「ああ。それでいいぜ。あんたには言いたいことが山ほどあるからな」航の言葉に、琢磨は不敵な笑みを浮かべる。「ふ~ん。どんな話が聞けるかそれは楽しみだ」そして2人の男は互いを見つめ……「「取りあえず荷物を降ろすか」」声を揃えた――****「航君と九条さん、遅いな……」料理を作りながら朱莉はソワソワしていた。「喧嘩とかしていたらどうしよう……。迎えに行ってみよう
琢磨は雨に打たれながら、朱莉と航が抱き合ている姿を呆然と見ていた。(誰なんだ……? あの男……航君と呼んでいたけど、まさか朱莉さんが沖縄で同居していた男なのか?)気付けば琢磨は歯を食いしばり、両手を強く握りしめていた。そして一度自分を落ち着かせる為に深呼吸すると、2人に近寄って声をかけた。「朱莉さん。その人は誰だい?」すると、その時航は初めて朱莉から離れて顔を上げ、琢磨の顔を見ると表情を変えた。「あ……あんたは九条琢磨……」(何? この男は俺のことを知っているのか?)そこで琢磨は尋ねた。「君は何故俺のことを知っているんだい?」すると航は言った。「そんなのは当たり前だろう? 自分がどれだけ有名人か分かっていないのか? 元鳴海グループの副社長の秘書。そして今は【ラージウェアハウス】の若き社長だからな」「そうか……。それで君は?」琢磨はイラついた様子で航を見た。航は先ほどからピタリと朱莉に張り付いて離れない。それがどうにも気に入らなかった。「あの、九条さん。彼は……」朱莉は琢磨のいつもとは違う様子に気付き、口を開きかけた所を航が止めた。「いいよ、朱莉。俺から自己紹介するから」その言葉を聞き、琢磨は眉が上がった。(朱莉……? 朱莉さんのことを呼び捨てにしているのか!? どう見ても朱莉さんよりは年下に見えるこの男は……)「俺は安西航。仕事で沖縄へ行った時に朱莉と知り合って1週間程あのマンションで同居させて貰っていたんだ。貴方ですよね? 朱莉の為にあのマンションを選んでくれたのは。2LDKだったからお陰で助かりましたよ」何処か挑発的に言う航。腹の中は怒りで煮えたぎっていた。(くそ……っ! この男が朱莉を鳴海翔に紹介しなければ朱莉はこんな目に遭う事は無かったのに……! それにしても悔しいが、顔は確かにいいな……)琢磨は何故航がこれ程自分を睨み付けているのか見当がつかなかった。(ひょっとしてこの男は朱莉さんのことが好きだから俺を目の敵にしてるのか?)一方、困ってしまったのは朱莉の方だ。まさか今迄音信不通だった航が突然自分の住んでいる億ションに現れるとは夢にも思っていなかったからだ。航とは話がしたいと思っていたので朱莉は提案した。「あの……取りあえず中へ入りませんか? 食事を用意するので」すると航は笑顔になった。「いいのか? 朱
「翔さん、落ち着いて下さい。医者の話では出産と過呼吸のショックで一時的に記憶が抜け落ちただけかもしれないと言っていたではありませんか。それに対処法としてむやみに記憶を呼び起こそうとする行為もしてはいけないと言われましたよね?」「ああ……だから俺は何も言わず我慢しているんだ……」「翔さん。取りあえず今は待つしかありません。時がやがて解決へ導いてくれる事を信じるしかありません」やがて、2人は一つの部屋の前で足を止めた。この部屋に明日香の目を胡麻化す為に臨時で雇った蓮の母親役の日本人女子大生と、日本人ベビーシッター。そして生れて間もない蓮が宿泊している。 翔は深呼吸すると、部屋のドアをノックした。すると、程なくしてドアが開かれ、ベビーシッターの女性が現れた。「鳴海様、お待ちしておりました」「蓮の様子はどうだい?」「良くお休みになられていますよ。どうぞ中へお入りください」促されて翔と姫宮は部屋の中へ入ると、そこには翔が雇った蓮の母親役の女子大生がいない。「ん? 例の女子大生は何処へ行ったんだ?」するとシッターの女性が説明した。「彼女は買い物へ行きましたよ。アメリカ土産を持って東京へ戻ると言って、買い物に出かけられました。それにしても随分派手な母親役を選びましたね?」「仕方なかったのです。急な話でしたから。それより蓮君はどちらにいるのですか?」姫宮はシッターの女性の言葉を気にもせず、尋ねた。「ええ。こちらで良く眠っておられますよ」案内されたベビーベッドには生後9日目の新生児が眠っている。「まあ……何て可愛いのでしょう」姫宮は頬を染めて蓮を見つめている。「あ、ああ……。確かに可愛いな……」翔は蓮を見ながら思った。(目元と口元は特に明日香に似ているな)「残念だったよ、起きていれば抱き上げることが出来たんだけどな。帰国するともうそれもかなわなくなる」すると姫宮が言った。「いえ、そんなことはありません。帰国した後は朱莉さんの元へ会いに行けばいいのですから」「え? 姫宮さん?」翔が怪訝そうな顔を見せると、姫宮は、一種焦った顔をみせた。「いえ、何でもありません。今の話は忘れてください」「あ、ああ……。それじゃ蓮の事をよろしく頼む」翔がシッターの女性に言うと、彼女は驚いた顔を見せた。「え? もう行かれるのですか?」「ああ。実はこ
アメリカ—— 明日いよいよ翔たちは日本へ帰国する。翔は自分が滞在しているホテルに明日香を連れ帰り、荷造りの準備をしていた。その一方、未だに自分が27歳の女性だと言うことを信用しない明日香は鏡の前に座り、イライラしながら自分の顔を眺めている。「全く……どういうことなの? こんなに自分の顔が老けてしまったなんて……」それを聞いた翔は声をかける。「何言ってるんだ、明日香。お前はちっとも老けていないよ。いつもどおりに綺麗な明日香だ」すると……。「ちょっと! 何言ってるのよ、翔! 自分迄老け込んで、とうとう頭もやられてしまったんじゃないの? 今迄そんなこと私に言ったこと無かったじゃない。大体おかしいわよ? 私が病院で目を覚ました時から妙にベタベタしてくるし……気味が悪いわ。もしかして私に気があるの? 言っておくけど仮にも血が繋がらなくたって私と翔は兄と妹って立場なんだから! 私に対して変な気を絶対に起こさないでね!?」明日香は自分の身体を守るように抱きかかえ、翔を睨み付けた。「あ、ああ。勿論だ、明日香。俺とお前は兄と妹なんだから……そんなことあるはず無いだろう?」苦笑する翔。「ふ~ん……翔の言葉、信用してもいいのね?」「ああ、勿論さ」「だったらこの部屋は私1人で借りるからね! 翔は別の部屋を借りてきてちょうだい。 あ、でも姫宮さんは別にいて貰っても構わないけど?」明日香は部屋で書類を眺めていた姫宮に声をかける。「はい、ありがとうございます」姫宮は明日香に丁寧に挨拶をした。「それでは翔さん、別の部屋の宿泊手続きを取りにフロントへ御一緒させていただきます。明日香さん。明日は日本へ帰国されるので今はお身体をお安め下さい」姫宮は一礼すると、翔に声をかけた。「それでは参りましょう。翔さん」「あ、ああ。そうだな。それじゃ明日香、まだ本調子じゃないんだからゆっくり休んでるんだぞ?」部屋を出る際に翔は明日香に声をかけた。「大丈夫、分かってるわよ。自分でも何だかおかしいと思ってるのよ。急に老け込んでしまったし……大体私は何で病院にいたの? 交通事故? それとも大病? そうでなければ身体があんな風になるはず無いもの……」明日香は頭を押さえながらブツブツ呟く「ならベッドで横になっていた方がいいな」「そうね……。そうさせて貰うわ」返事をすると
琢磨に礼を言われ、朱莉は恐縮した。「い、いえ。お礼を言われるほどのことはしていませんから」「朱莉さん、そろそろ17時になる。折角だから何処かで食事でもして帰らないかい?」「あ、それならもし九条さんさえよろしければ、うちに来ませんか? あまり大した食事はご用意出来ないかもしれませんが、なにか作りますよ?」朱莉の提案に琢磨は目を輝かせた。「え?いいのかい?」「はい、勿論です。あ……でもそれだと九条さんの相手の女性の方に悪いかもしれませんね……」「え?」その言葉に、一瞬琢磨は固まる。(い、今……朱莉さん何て言ったんだ……?)「朱莉さん……ひょっとして俺に彼女でもいると思ってるのかい?」琢磨はコーヒーカップを置いた。「え? いらっしゃらないんですか?」朱莉は不思議そうに首を傾げた。「い、いや。普通に考えてみれば彼女がいる男が別の女性を食事に誘ったり、こうして買い物について来るような真似はしないと思わないかい?」「言われてみれば確かにそうですね。変なことを言ってすみませんでした」朱莉が照れたように謝るので琢磨は真剣な顔で尋ねた。「朱莉さん、何故俺に彼女がいると思ったの?」「え? それは九条さんが素敵な男性だからです。普通誰でも恋人がいると思うのでは無いですか?」「あ、朱莉さん……」(そんな風に言ってくれるってことは……朱莉さんも俺のことをそう言う目で見てくれているってことなんだよな? だが……これは喜ぶべきことなのだろうか……?)琢磨は複雑な心境でカフェ・ラテを飲む朱莉を見つめた。すると琢磨の視線に気づく朱莉。「九条さんは何か好き嫌いとかはありますか?」「いや、俺は好き嫌いは無いよ。何でも食べるから大丈夫だよ」それを聞いた朱莉は嬉しそうに笑った。「九条さんも好き嫌い無いんですね。航君みたい……」その名前を琢磨は聞き逃さなかった。「航君?」「あ、いけない! すみません、九条さん、変なことを言ってしまいました。そ、それじゃもう行きませんか?」朱莉は慌てて、まるで胡麻化すように席を立ちあがった。「あ、ああ。そうだね。行こうか?」琢磨も何事も無かったかの様に立ち上がったが、心は穏やかでは無かった。(航君……? 一体誰のことなんだろう? まさかその人物が朱莉さんと沖縄で同居していた男なのか?それにしても君付けで呼ぶなん
14時―― 朱莉がエントランス前に行くと、すでに琢磨が億ションの前に車を停めて待っていた。「お待たせしてすみません。九条さん、もういらしてたんですね」朱莉は慌てて頭を下げた。「いや、そんなことはないよ。だってまだ約束時間の5分以上前だからね」琢磨は笑顔で答えた。本当はまた今日も朱莉に会えるのが嬉しくて、今から15分以上も前にここに到着していたことは朱莉には内緒である。「それじゃ、乗って。朱莉さん」琢磨は助手席のドアを開けた。「はい、ありがとうございます」朱莉が助手席に座ると、琢磨も乗り込んだ。シートベルトを締めてハンドルを握ると早速朱莉に尋ねた。「朱莉さんは何処へ行こうとしていたんだっけ?」「はい。赤ちゃんの為に何か素敵なCDでも買いに行こうと思っていたんです。それとまだ買い足したいベビー用品もあるんです」「よし、それじゃ大型店舗のある店へ行ってみよう」「はい、お願いします」琢磨はアクセルを踏んだ――**** それから約3時間後――朱莉の買い物全てが終了し、車に荷物を積み込んだ2人はカフェでコーヒーを飲みに来ていた。「思った以上に買い物に時間がかかってしまったね」「すみません。九条さん……私のせいで」朱莉が申し訳なさそうに頭を下げた。「い、いや。そう意味で言ったんじゃないんだ。まさか粉ミルクだけでもあんなに色々な種類があるとは思わなかったんだよ」「本当ですね。取りあえず、どんなのが良いか分からなくて何種類も買ってしまいましたけど口に合う、合わないってあるんでしょうかね?」「う~ん……どうなんだろう。俺にはさっぱり分からないなあ……」琢磨は珈琲を口にした。「そう言えば、すっかり忘れていましたけど、九条さんの会社はインターネット通販会社でしたね?」「い、いや。俺の会社と言われると少し御幣を感じるけど……まあそうだね」「当然ベビー用品も扱っていますよね?」「うん、そうだね」「それでは今度からはベビー用品は九条さんの会社で利用させていただきます」「ありがとう。確かに新生児がいると母親は買い物も中々自由に行く事が難しいかもね。……よし、今度の企画会議でベビー用品のコンテンツをもっと広げるように提案してみるか……」琢磨は仕事モードの顔に変わる。「ついでに赤ちゃん用の音楽CDもあるといいですね。出来れば視聴も試せ
朝食を食べ終わり、片付けをしていると今度は朱莉の個人用スマホに電話がかかってきた。それは琢磨からであった。昨夜琢磨と互いのプライベートな電話番号とメールアドレスを交換したのである。「はい、もしもし」『おはよう、朱莉さん。翔から何か連絡はあったかい?』「はい、ありました。突然ですけど明日帰国してくるそうですね」『ああ、そうなんだ。俺の所にもそう言って来たよ。それで明日香ちゃんの為に俺にも空港に来てくれと言ってきたんだ。……当然朱莉さんは行くんだろう?』「はい、勿論行きます」『車で行くんだよね?』「はい、九条さんも車で行くのですね」『それが聞いてくれよ。翔から言われたんだ。車で来て欲しいけど、俺に運転しないでくれと言ってるんだ。仕方ないから帰りだけ代行運転手を頼んだんだよ。全く……いつまでも俺のことを自分の秘書扱いして……!』苦々し気に言う琢磨。それを聞いて朱莉は思った。(だけど九条さんも人がいいのよね。何だかんだ言っても、いつも翔先輩の言うことを聞いてあげているんだから)朱莉の思う通り、琢磨自身が未だに自分が翔の秘書の様な感覚が抜けきっていないのも事実である。それ故、多少無理難題を押し付けられても、つい言いなりになってしまうことに琢磨自身は気が付いていなかった。「でも、どうしてなんでしょうね? 九条さんに運転をさせないなんて」朱莉は不思議に思って尋ねた。『それはね、全て明日香ちゃんの為さ。明日香ちゃんは自分がまだ高校2年生だと思っているんだ。その状態で俺が車を運転する訳にはいかないんだろう。全く……せめて明日香ちゃんが自分のことを高3だと思ってくれていれば、在学中に免許を取ったと説明して運転出来たのに……』琢磨のその話がおかしくて、朱莉はクスリと笑ってしまった。「でもその場に私が現れたら、きっと変に思われますよね? 明日香さんには私のこと何て説明しているのでしょう?」『……』何故かそこで一度琢磨の声が途切れた。「どうしたのですか? 九条さん」『朱莉さん……君は何も聞かされていないのかい?』「え……?」『くそ! 翔の奴め……いつもいつも肝心なことを朱莉さんに説明しないで……!』「え? どういうことですか?」(何だろう……何か嫌な胸騒ぎがする)『俺も今朝聞いたばかりなんだよ。翔は現地で臨時にアルバイトとして女子大生と
「それじゃ、朱莉さん。次は翔から何か言ってくるかもしれないけど、くれぐれもアイツの滅茶苦茶な要求には答えたら駄目だからな?」タクシーに乗り込む直前の朱莉に琢磨は念を押した。「九条さんは随分心配性なんですね。私なら大丈夫ですから」朱莉は笑みを浮かべた。「もし翔から契約内容を変更したいと言ってきたら……そうだな。まずは俺に相談してから決めると返事をすればいい」するとタクシー運転手が話しかけてきた。「すみません。後が詰まってるので……出発させて貰いたいのですが……」「あ! すみません!」琢磨は慌ててタクシーから離れると、朱莉が乗り込んだ。車内で朱莉が琢磨に頭を下げる姿が見えたので、琢磨は手を振るとタクシーは走り去って行った。「ふう……」タクシーの後姿を見届けると、琢磨はスマホを取り出して、電話をかけた。「もしもし……はい。そうです。今別れた所です。……ええ。きちんと伝えましたよ。……後はお任せします。え? ……いいのかって? ……あなたなら何とかしてくれるでしょう? それだけの力があるのですから。……失礼します」そして電話を切ると、夜空を見上げた。「雨になりそうだな……」**** 翌朝――6時朱莉はベッドの中で目を覚ました。昨夜は琢磨から聞いた翔の伝言で頭がいっぱいで、まともに眠ることが出来なかった。寝不足でぼんやりする頭で起きて、着替えをするとカーテンを開けた。「あ……雨……。どうりで薄暗いと思った……」今日は朱莉の車が沖縄から届く日になっている。車が届いたら朱莉は新生児に効かせる為のCDを買いに行こうと思っていた。これから複雑な環境の中で育っていく子供だ。せめて綺麗な音楽に触れて、情操教育を養ってあげたいと朱莉は考えていた。洗濯物を回しながら朝食の準備をしていると、翔との連絡用のスマホに着信を知らせる音楽が鳴った。(まさか、翔先輩!?)朱莉はすぐに料理の手を止め、スマホを見るとやはり翔からのメッセージだった。今朝は一体どんな内容が書かれているのだろう? 翔からの連絡は嬉しさの反面、怖さも感じる。好きな人からの連絡なのだから嬉しい気持ちは確かにあるのだが問題はその中身である。大抵翔からのメールは朱莉の心を深く傷つける内容が殆どを占めている。(やっぱり契約内容の変更についてなのかなあ……)朱莉はスマホをタップした。『おは
「本当はこんなこと、朱莉さんに言いたくは無かった。だが翔が仮に今の話を直接朱莉さんに話したとしたら? 恐らく翔のことだ。きっと再び朱莉さんを傷付けるような言い方をして、挙句の果てに、これは命令だとか、ビジネスだ等と言って強引に再契約を結ばせるつもりに違いない。だがそんなこと、絶対に俺はさせない。無期限に朱莉さんを縛り付けるなんて絶対にあってはいけないんだ」琢磨は顔を歪めた。(え……無期限に明日香さんの子供の面倒を? それってつまり偽装婚も無期限ってこと……?)なので朱莉は琢磨に尋ねた。「あの……それってつまり翔さんは私との偽装結婚を無期限にする……ということでもあるのですよね?」(そうしたら、私……もう少しだけ翔先輩と関わっていけるってことなのかな?)しかし、次の瞬間朱莉の淡い期待は打ち砕かれることになる。「いや、翔の言いたいことはそうじゃないんだ。当初の予定通り偽装婚は残り3年半だけども子育てに関しては明日香ちゃんが記憶を取り戻すまで続けて貰いたいってことなんだよ」「え……?」「つまり、翔は3年半後には契約通りに朱莉さんと離婚して、子供だけは朱莉さんに引き続き面倒を見させる。しかも明日香ちゃんが記憶を取り戻すまで、無期限にだ。こんな虫のいい話あり得ると思うかい?」「……」朱莉はすっかり気落ちしてしまった。(やっぱり……ほんの少しでも翔先輩から愛情を分けて貰うのは所詮叶わないことなの? でも……)「九条さん」朱莉は顔を上げた。「何だい」「私、明日香さんと翔さんの赤ちゃんを今からお迎えするの、本当に楽しみにしてるんです。例え自分が産んだ子供で無くても、可愛い赤ちゃんとあの部屋で一緒に暮らすことが待ちきれなくて……」「朱莉さん……」「九条さん。もし、子供が3歳になっても明日香さんが記憶を取り戻せなかった場合は、翔さんは私に引き続き子供を育てて欲しいって言ってるわけですよね? それって……翔さんは記憶の戻っていない明日香さんにお子さんを会わせてしまった場合、お互いにとって精神面に悪影響が出るのではと苦慮して私に預かって貰いたいと思っているのではないでしょうか? だって、考えても見てください。ただでさえ10年分の記憶が抜けて自分は高校生だと信じて疑わない明日香さんに貴女の産んだ子供ですと言って対面させた場合、明日香さんが正常でいられると